2.「山谷(町会)」について

吉南祭礼の山車には「山谷町」と大きく書かれてあり、写真には写っていませんが「昭和二十八年」と入っています。その頃の町内(会)の名称が「山谷町」だった訳で、必ずしも正式な町名とは限りません。

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吉南祭礼 山車 撮影:菅野政昭

JR中央線が高架になる前、弁天通りと中央線が交わるところには踏切があって、その名称が「山谷踏切」でした。高架下にある現在のアトレ駐車場の名称に、文字通り当時の名残があります。※2018平成29年11月現在

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こんな平らな場所で「山谷」というのが不思議ですね。
管理人世代(60代後半)よりずっとずっと上の世代の方の話によると、こうゆうことらしいです。
『わしらよりずっと以前、この辺りには3軒の家しかなかった。それで「三家」と呼ばれていたのが文字が変わって「山谷」になった』
そういえば、現在の二丁目SOZAIさんの前身は「三家精米店」でありました。

それではいつ頃から「山谷」あるいは「三家」という地域の名称があったのでしょうか?
地域の中には文献も図面も残っていませんが、明治のはじめから正確な地図が作られていて、国土地理院から公開されています。それを見てみましょう。

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明治13年頃

上の地図は明治13年頃に調査・測量された、「第一軍管地方迅速図」という近代的な地図の先駆けとも言うべき地図です。
赤○のところが今の末広通りで、吉南商店会のあたりです。建物が4棟書かれています。そのうちの東端の1棟は小さく潰れていて、納屋とか蔵のような気がします。そうすると家は3軒ですね!
この頃の吉祥寺の中心地は五日市通り沿いにある事がわかります。五日市通りに直角に、短冊状の土地区割りが南北に伸びています。

明治39年頃

上の地図は中央線(当時は甲武鉄道)が通った後、明治39年頃のものです。現在との位置関係もわかりやすくなりました。はっきりと「山谷」という地名が明記されています。
こうしてみると、三家⇒山谷となったという話は事実であるだろうということがわかります。武蔵野図書館等で調べればもっと詳しいことがわかると思いますが、商店会の歴史程度の中ではこれくらいにしておきます。

せっかくここまでの地図を調べたのですから、大正・昭和、そして大きな戦争で敗戦した頃までを辿ってみましょう。

大正6年頃
大正6年頃

大正6年頃、「山谷」の地名辺りに集落が出来ています。吉祥寺駅の北口が駅前でなくて「停車場前」というのが面白いです。井の頭池と末広通り(当時の呼び名は?)の間に小さな池が出来ています。今の丸井裏あたりでしょうか、お屋敷か料亭のような感じです。

昭和2年頃

昭和の初め頃です。末広通りのすぐ下に、末広通りとほぼ並行して破線があります。「水道」という文字もありますから、大きな水道管が埋設され、後に井の頭通り(水道道路)となった位置です。

昭和20年頃

激動の昭和20年頃です。井の頭通り(水道道路)がはっきりしてきましたが、まだ今のような大通りではなく公園通りでT字路になっています。今の吉祥寺南町2丁目地域(吉南商店会域)の殆どが住宅街になっています。